禁酒36日目『飲酒運転⑦劣等感』
体重 61.0
お金 160,595円(0円)
目標達成まで 55日
目標達成のご褒美 ???
飲酒運転で捕まり、事情聴取が終わり、開放されたあと、世界が灰色に見えた。
多分、家族がいなかったら精神的におかしくなっていたと思う。当時、子供は長男が3歳、長女が1歳だった。
当然、子供たちは私が飲酒運転したことを知らない。
私はまず妻、子供たちに対して申し訳なく思った。
また、会社に対しても「申し訳ない、恥ずかしい」という劣等感がものすごくあった。
会社では総務、人事の部署にいたため、そんな
人間が飲酒運転なんて考えられない。私は会社を
辞めることを考えた。
家につき、妻と色々話しているとき、妻にその
ことを伝えると、妻は「会社辞めても良いよ、
私も働くよ」と言ってくれた。
その言葉を聞いたとき、私は辞めたいと言った
ことを後悔した。ただでさえ、飲酒運転で心配をかけているのに、会社を辞めることで今後の生活のことも心配をかけてしまったのだ。私は、会社の中での気まずさ、劣等感を想像し、そこから逃げたい、という気持ちだけで辞めることを考えていた。
家族のことを考えていなかったのだ。
それなのに、妻は私を気遣い「辞めてもいいよ」と
すぐに言ってくれた。
私はその言葉で少し正気に戻った。「飲酒運転の
ことでどんなに言われても、劣等感を感じても、レッテルをはられても、左遷されても、死にものぐるいで働いて、仕事・収入のことで心配をかけるのはやめよう」
と考えることができた。
翌日、日曜日だったが、上司が時間を作ってくれて
飲酒運転の経緯を説明した。
上司は、すべての経緯を会社へ報告する。今までも
飲酒運転を行った社員がいて、懲戒処分になっているので、同じ程度の処分は下るだろう。と言いつつも励ましてくれた。
次の月曜日、会社に出勤した私は、2,3人ずつ
時間をもたら、飲酒運転してしまったこと、それによりイヤな思いをさせてしまうこと、車に乗れないので迷惑をかけてしまうことなどを説明し謝罪した。
多くの社員の方が励ましてくれた。「気にしても仕方がない、仕事で返すしかないな」「こんなことでめげてちゃいけないよ」「時間が経てば風化する」「俺が車に乗る時、声をかけるから、必要だったらどこへでも送ってやる」など、温かい言葉をかけていただいた。
私は、この時ほど、家族や会社に感謝したことはない。
私の残りの人生をかけて、会社と家族に恩返ししなければいけないと思った。
禁酒34日目『飲酒運転⑥事情聴取』
体重 61.1
お金 160,595円(0円)
目標達成まで 57日
目標達成のご褒美 ???
パトカーに乗っているとき、いろいろな事を考えた。家族のこと、会社のこと。
離婚と言われても仕方ない。クビと言われても仕方ない。
落ち込むというレベルではなかった。憔悴状態という感じだった。
確か事故が朝5時、捕まったのが6時、事情聴取が終わったのが午後4時頃だったと思う。
パトカーが駐在所に着き、事情聴取が始まった。
始まるとき、スマホを没収され、嘘をつきませんという趣旨の誓約書を書いた。
てっきり、昨日から今日にかけての事を聞かれると思ったら、何と出生地から聞かれ、子どもの頃の家族構成や(11歳で父と死別した事も伝えた)通った学校、会社のこと、などなど事件と直接的に関係のない事を沢山聞かれた。
おそらく、私を裁くときの参考にする、と言う事だろう。
もちろん、昨夜からの飲酒状況も細かく聞かれた。何時に、どこの店で、誰と、何の酒を、どれだけ飲んだのか。2次会は?3次会は?
単純な行動の記録だけではなく、その時の私の考えや感じた事も細かく聞かれた。
私は、これ以上の罪を犯すまいと、事情聴取にはなるべく正確に、正直に答えようと決めていたが、あまりにも細かく聞かれたので、答えきれない事もあった。そして、とても疲れた。あそこまで多くの質問に、全神経を集中して答えたのは、おそらく初めてだった。また、二日酔いの症状も出てきて、くたくただった。
昼ごろ、休憩となり、警察に近くの定食屋を紹介された。私は言われるまま定食屋まで行ったが、とても食事するという気分ではなかったので、少しフラフラして、また駐在所へ戻ってきた。
午後も引き続き事情聴取が行われ、最後は警察が紙に書いた内容を読み上げた。たぶん事情調書?というものだ。調書には、私の出生地、子どもの頃の家族構成、学校、会社などなど、さまざまな事が書かれていた。確かA4用紙10枚くらいだった。
全て聞き終わり、少し修正してもらい、全てのページに母印を押した。どうでもいいが、母印を押すための朱肉が黒かったことを思い出した。普通は赤なので印象に残っている。
駐在所から出るためには、家族に迎えに来てもらう必要があった。そのため、妻と妻の両親に、事情聴取が終わるまで近くで待っていてもらった。
本当は、10時に待合せ、妻と子供を引き取り、昼ごろには自宅に戻っているはずだった。
家族が駐在所に到着し、嫁が迎えにきた。
嫁に謝り、両親の車まで行き、両親に会った。
私は『すみません』としか言えず、その場に崩れ込んでしまった。
だきか抱えられながら車に乗り、両親から一言二言言われた。お義父さんは『家族を心配させるような事はダメだ』義母は『バカ、パンチだ』と言うようなことだった。私はただただ下を向きながらぼーっとしていた。憔悴しきっていた。何もかも灰色に見えていた。11歳で父と死別した時も、もの凄い精神状態になった。その時とはまた性質が違うが、この時ももの凄い精神状態だった。何と言うのだろう、簡単に言うと『死にたい』という感じだった。
生まれて初めて死にたいと思った。もちろん発作的なもので、すぐに、『いや、逃げたらダメだ』となったが、それほど自分を追い詰めると、逃げたい、死にたいと感じるものなのだ。
お義父さんに最寄駅まで送ってもらい、妻と子どもと一緒に電車で帰宅した。
明日へ続く。
禁酒33日目『飲酒運転⑤逮捕』
体重 61.7
お金 160,595円(0円)
目標達成まで 58日
目標達成のご褒美 ???
警察とJAFのスタッフが帰り、私はまた車を運転し始めた。すぐにSAが見えてきたが、そこも通過して走り続けた。
しばらく走ると、長い直線のトンネルに入った。トンネル内の暖色系のライトで、また睡魔がおそってきた。
オーディオの音量を最大にし、コーヒーとガムを食べ、必死に運転していたが、自分の意思とはうらはらに、またうとうとしていた。
ハッと気づき前方とハンドルを操作する。しかし、またうとうとして、ハッとなる。こんな事が5〜6回続いたと思う。本当に危険な状況だ。
そして、長いトンネルを抜けそうなところで、またうとうとしてしまった。
次にハッとしたときは、大きな衝撃と音だった。
気づくと、トンネルは抜けていたのだが、抜けた先の道が大きな左カーブになっていて、操作者を失った車は、中央分離帯に乗り上げた。
私は慌ててハンドルを切り、何とか抜け出したが、右前方のタイヤがパンクしているようだったので、路肩に止めた。
もう少しでインターだったので、そこまで走らせようとしたが、車は全く動かなかったので、諦めて車から降りガードレールの外に避難した。
JAFに連絡すると、到着まで3時間以上かかるようで、保険会社へ相談するように言われた。
保険会社へ相談すると、1時間程度で行けるが、警察の事故証明がないと対応できないため、警察へ連絡してほしいと言われた。
私は何も考えず、警察へ連絡した。警察は30分もかからず到着し、事故状況を聞いてきた。
その時は、日の出後で、あたりは完全に明るくなっていた。風はほとんど吹いていなかったと思う。
私は酒のことは言わずに、よそ見をしていたら中央分離帯にぶつかったと行ったが、警察はいろいろ聞いてきた。内容は覚えていないが、自分でも言っていることが、少しずつおかしくなっているのが分かった。多少は酔いが覚めていたので、酒がバレないかドキドキしていた。
その時、警察が『お兄さん、お酒の臭いがするけど、お酒飲んだの?』と聞かれ、飲んだと伝えると、パトカーで検査させてほしいと言われた。
その瞬間、私は全てを諦めた。『あぁ、もお終わったな』と。
パトカーに乗せられ、袋に息を吐き、警察が測定した。飲酒運転の基準は、吐いた息の中のアルコール濃度が、0.15mg以上となるが、私の数値は基準を大きく上回る0.83mgだった。
警察たちも少し驚いていた。
その数値を見て、警察達の様子が一気に変わったのを覚えている。
私は外に出され、道路の白線を歩かされた。特にふらつく事なく、白線の上を歩き、またパトカーに乗せられた。後になって知ったが、飲酒運転には、酒酔い運転と酒気帯び運転の2種類があり、それを調べるためのものだった。
私はパトカーで出発する前に、妻に電話した。妻に『飲酒運転で捕まった、ごめん』と言うと、妻は驚いていたが『私はいつかやると思っていた、もうしょうがないから、正直に話してきて』
母にも電話した。母は泣いていたが、妻と同じような事を言っていた。
明日へ続く。
禁酒32日目『飲酒運転④1回目の事故』
体重 61.8
お金 160,595円(0円)
目標達成まで 59日
目標達成のご褒美 ???
車に乗り高速道路の手前のコンビニで、コーヒーとガムを買った。
高速へ入り、30分ほど走ったところで眠気がきた。私はうとうとしながら、それでも走り続けていた。何度目かな睡魔でうとうとしていると、もの凄い音と衝撃で目が覚めた。
気がつくと、車がガタガタしていたので、ブレーキをかけ、ハンドルを操作して、路肩に停車し車をチェックした。そしたら、左前方のタイヤがパンクしていた。あたりはまだ真っ暗で、他の損傷は分からなかったが、私はJAFを呼んだ。
JAFを待っていると、覆面パトカーが通りかかり、警察が降りてきて、様子を聞いてきた。
私は走っていたらバーストしていまったと伝えると、警察は危ないのでJAFが来るまで待機すると言った。特に私の中で焦りはなかった。何故なら私はまだ酔っていたのだ。あたりはまだ真っ暗で、強風が吹いていたので、私の顔色や酒の匂いが分かりにくく、気づかれなかったのだろう。
しばらくすると、JAFが到着しスペアタイヤと交換してくれ、警察も帰っていった。
そのとき、JAFのスタッフの方が『次のSAで休んだ方がいいよ、お兄さん、匂いするよ』と言って帰っていった。
私はその忠告を無視して走り続けた。何故なら朝になるまでに嫁の実家に着かなければいけないためだ。そう、私はまだ酔っていたのだ。
明日へ続く。
禁酒31日目『飲酒運転③車に乗るまで』
体重 62.7
お金 160,595円(0円)
目標達成まで 60日
目標達成のご褒美 ???
記憶が無くなりつつも、家に帰りシャワーを浴びて夜中1時頃寝た。(起きた時、パジャマを着て体がタバコ臭くなかったので多分、シャワーを浴びている)
もの凄い喉の渇きと、尿意で2時半頃に起きてしまった。
トイレへ行き、水を飲み、そのまま寝れば良かったのだが、私は『そうだ、今から出発すれば子ども達が起きる頃には嫁の実家に着けるぞ。お父さんにも運転させなくて良いし、子どももびっくりして喜ぶに違いない、少しだけど寝たから大丈夫。』と思ってしまった。
私はその勢いで車に乗ってしまった。
はぁ、、、
今振り返っても、何て馬鹿な事をしてしまったのかと思う。悔やんでも仕方がないが、この時の事を思い出すと必ず悔やむ。
つまり、2時半頃に起きた私は、まだベロベロに酔っていたのだ。
酔っていてまともな考えが出来ていなかった。
酔ったときのあるあるで、一度、自分がこうだと思ったことは、頑として変えることはない。
普通に考えれば、あらかじめ約束の場所と時間を決めていて、お互いそこまで車で来る事になっているのだから、その通りにすればいいのに。7時過ぎまで寝ていれば良かったのに。(それでもお酒は抜けていなかったと思うが)
私は勝手に、実家まで行ってしまえば、相手が喜ぶだろう、と決めつけていたのだ。
明日へ続く。
禁酒30日目『飲酒運転②前日の飲酒状況』
体重 62.5
お金 160,595円(0円)
目標達成まで 61日
目標達成のご褒美 ???
今日から飲酒運転してしまった事について書いていく。
2018年8月、夜中まで酒を飲み、家に帰って寝たのだが、朝方に目が覚め、車に乗り、高速道路を移動中、居眠りで中央分離帯に車をぶつけ、タイヤがパンクしたため、警察を呼んで話しているとき、『お兄さん、匂うね』という事で検査をしたらアウトで捕まった。
免許は取消し、略式起訴で罰金を払い、会社からは懲戒処分で1年間給与が減額された。
簡単に書くとこのような内容だが、細かな話を書いていく。
まず、飲酒した翌日の予定だが、妻と子どもたちが妻の実家に帰省していたため、お互いの家から中間地点に位置する高速道路のSAに朝10時に待ち合わせる予定だった。
そのため、私は朝8時に出発する必要があった。
しかし、前日に会社の組合の飲み会があり、そこで飲みすぎてしまったのだ。
次の日は車を運転することを分かっていながら、私はいつものようにベロベロになるまで飲んでいた。
結局、最後の3次会まで飲み続け、多分、0時頃家に帰った。(3次会の途中から家で寝付くまで、まったく記憶がない)
何故、ここまで飲んでしまったのか、、
それは、それまでの経過からだと思う。
それ以前も、次の日、仕事なりプライベートで運転をする予定があっても、私はあまり気にせずに酒を飲んでいた。
そして、車を運転しているとき、嫁から『酒臭いよ』と何度も言われていたのだ。
また、あるときは、朝方、高速道路を走って、居眠りしてしまい、路肩に寄りすぎ、振動と音で目が覚めてヒヤッとしたこともあった。(その時は次のSAで仮眠した)
このように、普段から黄色信号が点滅していたのだ。(検問に引っかかっていたら間違いなく、飲酒運転で捕まっていただろう)
しかし、私はそのサインを軽視して、酒を控えることをせず、『大丈夫』という気持ちで飲み続けていたので、その日もベロベロになるまで飲んでいたのだ。
明日へ続く。